cho-kai-san811のブログ

連れ合いを失った老人のたわごとです。心機一転何らかの生きがいを見つけて前向きに生きたいと思っています。

20240410病院ボランティア、沖縄の津波対処

今日は午後から出勤し病棟4ヶ所への図書の配布と回収を行ってきた。相棒が都内から出勤しているので帰りのバスの時間を考慮し早めに切り上げようと急いだので大汗をかいた。午後の病棟は閑散としている。大きくて重い図書用のラックを押して病院内通路を移動するのは午後の方が良い。
戻ってきた図書を整理して本棚に戻すのにも時間がかかる。13時から作業を始めて15時半までかかった。


台湾の地震で沖縄に津波警報が出ました。沖縄の人々は初めての経験だったのではないでしょうか。 沖縄本島の居住地域はおおむね高台が近いので避難できるが台湾に近い竹富島とか波照間島などは高台がないので待避所を造る必要があるのではないだろうか。那覇基地のF15戦闘機は通常格納庫乃至エプロンに並んでいるが、エプロンは海抜数メートルなので津波が来ると冠水する恐れがある。東日本大震災の時は海岸に近い宮城県松島基地のF-2戦闘機が全機津波に流され、壊れてしまった。松島基地の場合、他基地へ避難する時間の余裕がなかったのだ。幸い那覇基地には高台があり、今回F-15は基地内の高台の道路上に機体を牽引して並べたらしい。今日のテレビで放映された。迅速に対処できるよう訓練も必要だし、今後海岸べりに飛行場を作るのは問題かもしれない。

報徳仕法、推奨住宅

江戸期、天明3-4年(1783-84)相馬中村藩は冷害による飢饉におそわれました。餓死者や離散者も出て、元禄15年(1702)に約9万人いた人口が3分の1に減りました。中村藩は厳しい倹約施策(「文化の厳法」と称される)により天保元年には藩の借金を大部分返済し終わりました。
ところが天保4年から7年まで再び冷害におそわれました。中村藩は「文化の厳法」を延長し餓死者を出さずに済みましたが、藩の財政は破綻してしまいました。
幕府からも借金しましたが藩主がかなり頭を下げてお願いしたようです。当時の幕府は財政までは面倒見てくれなかったようです。
中村藩は藩政を立て直すため、藩士(富田高慶)を二宮尊徳のもとに入門させ「報徳仕法」を学ばせました。中村藩は富田高慶を中心に藩の改革を推進しました。領民の住宅もその一つで現代でいう規格住宅のようなものまで推奨しました。
私がなぜこの住宅に注目したかというと、相馬中村にあった私の昔の実家が「報徳仕法」で推奨した規格住宅にそっくりだったからです。当時建築時期は聞きませんでしたが江戸末期という事でした。むかしの実家は昭和40年代に建て替えられましたが子供のころ住んでいたので間取りなどははっきり覚えています。祖父は農家に生まれ「報徳仕法」を厳格に守った人でした。食べる米は常に新米ではなく、2年前の米を食べていました。商家育ちの母は、米がまずいと不平を言っていましたが、戦後の食糧不足の時期でも米に困ることはありませんでした。祖父は孫の私たちにも常に飢饉に備える心構えを話してくれました。


報徳仕法の推奨住宅の一例、昔の田舎の実家そっくり、写真は南相馬市の文献からお借りしました。当時の実家は馬は飼っていませんでしたが、納屋で鶏を飼っていました。トイレと豚小屋は別棟にありました。


内視鏡検査、コミュニケーショントレーニングの説明会

今日は午前中大腸下部の内視鏡検査を受けてきた。ベッドに横たわりながらリアルタイムの内視鏡映像が見れた。医師の説明がなかったので医学的に見て状態がどうなっているのかは分からなかったが、検査中、一部を切り取りますよ、との発言があった。5月はじめに細胞診の結果について主治医の説明があるようだ。直腸がんを心配しているのかもしれない。自覚症状は全くない。


午後から医大で4年生に対するコミュニケーショントレーニングの説明会があった。昨年と同様の内容だ。新校舎ができたのでトレーニング場所は新しくなる。私の割り当てられた患者役は、中年の糖尿病の疑いのある患者である。