昭和38年出会いの記憶(5)
F-86F戦闘機の課程を修了すると任地の希望調査があった。希望通りにはいかないのだが一応希望調査をするのが慣例だった。私は家内の実家のある山口県岩国基地を第一希望に選んだ。岩国基地は米海兵隊の飛行部隊が展開しているが当時は空自の部隊も間借りのような形で展開していた。結果は福岡県の築城基地勤務になった。築城基地は旧帝国海軍の基地で戦後米空軍が進駐してきた。朝鮮戦争後は撤収し空自の基地になった。当時築城基地にはF-86F戦闘機の飛行隊が2個あった。赴任した最初は訓練生の立場で一人前には扱われず、飛行隊のなかで雑用係だった。先輩たちの話している内容を聞いても「ちんぷんかんぷん」だった。訓練生の立場から対領空侵犯措置(いわゆるスクランブル待機)に就けるOR(Operatinal Readiness)資格を取るにはさらに1年近い期間が必要だった。一番重視されたのは射撃の技量だった。当時のF-86Fの武装は12.7ミリ機銃が6門とAIM-9サイドワインダーミサイル2発であった。サイドワインダーミサイルは赤外線追尾で、敵機の後方でミサイルが命中する位置に占位することが必要だった。一方の12.7ミリ機銃は有効射程も短く、敵機の後方で精密な照準をしないと命中しなかった。ORになるには射撃資格を取らねばならなかった。通常は100発携行し吹き流し標的に何発命中したかで判定した。吹き流し標的は海上の射場で射撃した後飛行場内に投下し射撃係が採点した。機銃弾には色が付けられていたので誰が打った弾か分かるようになっていた。通常4機で交互に撃つのだが、決められたパターンを飛ばないと他機に迷惑をかける。チームワークが大事なのでチームワークが取れないと仲間外れになる。空対空射撃のほか空対地射爆撃訓練も行った。当時、福岡県芦屋町、岡垣町に空対地射爆撃場があり、ベトナム戦争に参加する米軍が連日猛訓練していた。その合間に自衛隊機も訓練したのだが、米軍パイロットからベトナム戦争の状況を断片的ながら聞くことができた。