cho-kai-san811のブログ

連れ合いを失った老人のたわごとです。心機一転何らかの生きがいを見つけて前向きに生きたいと思っています。

8月になると思い出すこと

topgan(topgunではない)

今から51年前、昭和50年8月に石川県から沖縄県に転勤になった。沖縄は本土復帰直後で未だドルが通用していた。一部の店はドルと円表示の二本立てで、公定のドル円交換比率を考えるとドルで買った方が少し安かった。先に沖縄に転勤になった同僚から沖縄での生活の様々な情報が流れて来ていた。本土復帰後、自衛隊は部隊ごとの大規模な移転だったので今では考えられないような事象が起きた。隊員(家族帯同)の宿舎の確保が大変だった。米軍が入っていた施設に入れ替わる形で移転したが、米軍家族が入っていた宿舎は広すぎるので、部屋に仕切りをつけて2家族が入った。それでも宿舎が足りないので、居酒屋の2階に住んだ人もいた。これは「特別借り上げ宿舎」という名で、官舎と見なして国から家主に家賃が支払われた。私が入居したのは浦添市の民間のアパートで3階建ての長屋だった。アメリカ人向けに建てられたアパートで土足で入り、トイレとシャワーが一緒だった。場所は浦添市の伊祖という地区で、沖縄戦の時には最大の激戦地になったところだ。沖縄に転勤する前に沖縄戦に関する名著と言われた高級参謀だった八原博道氏の手記「沖縄決戦」や朝雲新聞社発行の公刊戦史「沖縄方面陸軍作戦」を読んだ。これらの本や、米国陸軍省が編纂した「日米最後の戦闘」には伊祖地区での戦闘がこと細かく記述されている。暗示にかかったわけではないが、当時、周辺地区を歩き回って戦史の記述を実地に確かめようとした。自宅の近所の伊祖地区の村の「鎮守の森」があったところには銃砲撃の跡が生々しく残っていた。畑を少し掘るだけで当時の銃弾が出てきたこともある。そこに前から住んでいた人々はどこに避難したのだろうか、南部に避難した人々の中で生還できなかった人の方が多かったのだろうと思う。

あれから50年、グールマップで見ると地域の景観が様変わりしている。米軍が上陸した嘉手納方面(北側)から見ると「浦添丘陵」は屏風のように立ちはだかっている。日米が激戦を戦った理由は明白だ。「浦添丘陵」には戦争遺構のみでなく、沖縄の歴史的遺産として保存すべき遺構も多く、一部復元され観光資源としても利用されている。沖縄の歴史を知るためには一度は訪れたい場所だ。琉球王だった尚氏の子孫はいまどうしておられるのだろうか。最近の皇室典範改正論議をみて明治時代の廃藩置県を思い出した。


浦添市伊祖地区、昔住んでいたアパートも写っている、中央の緑地(伊祖公園)は高台になっている。