cho-kai-san811のブログ

連れ合いを失った老人のたわごとです。心機一転何らかの生きがいを見つけて前向きに生きたいと思っています。

小学校の思い出

最近、むかしのことを思い出すことが多くなった。人生を総括しようとする本能なのかもしれない。むかし通った小学校は現在どうなっているだろうか。70数年以上も経っているので昔の姿が残っているはずもないが、IT社会になり便利なグーグルアースが利用できるので最近の姿が見られるようになった。終戦直後昭和21年に初入学したのだが父の仕事が転々としたので4つの小学校に通った。一般に大都市の中にある小学校は当時マンモス校だった。しかし現在の姿を写真で見ると、こじんまりした姿になっている。小学校の数が増えたことのほかに、児童の数が減ったからであろう。幸いに廃校になった小学校はない。名称は昔のままである。両親が当時の有名小学校に入れたいため、私を知人宅に「寄留」させ、越境入学させたことがあった。当時、登録した住所以外に知人宅などに寄留を認める制度があった。昭和27年に現在の住民登録法ができてこの制度は廃止になったようだ。実際は登録した住所に家族と一緒に住んでいるのに、知人宅に一時的に住んでいるように誤魔化して越境入学ができたのだ。 

福島県新地町立福田小学校、昭和21年、小学1年生に入学、桜が満開だったのを覚えている。当時は木造平屋建ての校舎。1年生の1学期のみ在校。

福島県相馬市立八幡小学校、当時は木造平屋建てだった。小学校1年生の2-3学期のみ在校。純農村なので食料不足はなかった。現在も墓参りの時は近くを通る。

仙台市立南材木町小学校、小学校の場所は変わらないが周辺の景観は激変している。当時マンモス校だった。全国児童合唱コンクールで何度も優勝している。昭和22-26年、小学校2年-6年生の1学期まで在校。
戦後の激動期、先生方も教育方針の切り替えに苦労していた。食料不足が深刻で、先生も弁当にサツマイモを蒸かして持ってきた。昼食時、弁当なしで校庭を走り回っていた児童もいた。学校給食が始まったのは4年生くらいからかはっきりは覚えていない。最初はコッペパン1個にジャム、国連が支援した脱脂粉乳が付いた。食べ盛りの児童にこれでは不足であった。朝鮮戦争が始まったのは昭和25年6月、5年生のとき。これをきっかけに警察予備隊が創設され、父は元々生粋の軍人ではなかったが入隊した。当時、他の公務員に比べ給与水準が高かった。

東京都中野区立塔山小学校、昭和26年当時、焼け跡に木造バラック校舎だった。小学6年生の2-3学期のみ在校。やさしい先生が多かった。朝鮮戦争が激化し、世情騒然としていた。このころから食料不足は解消しつつあった。金偏景気とも言われ、朝鮮特需で潤った産業もあった。