cho-kai-san811のブログ

連れ合いを失った老人のたわごとです。心機一転何らかの生きがいを見つけて前向きに生きたいと思っています。

終戦前後の思い出ー2(朝鮮戦争前)

国民学校1年生への入学は福島県の田舎の小学校(入学後1年生の間に隣町の小学校に転校)だったが、父の失職にともなう新しい就職先が仙台市の機械製造会社に決まったので2年生から仙台市中心部のマンモス小学校に転校した。昭和21-22年ころは外地から引き揚げて来られた方々が増加し小学校はパンク状態だった。2部授業や3部授業が行われた。児童の数が増加したため、時差出勤のように学年ごとに授業時間をずらせたのだ。小学校の廊下や校庭でも授業した。福島県の小学校から仙台市の小学校に転校した際、母は担任の先生に「この子はズーズー弁なのでよろしくお願いします」と挨拶したのを覚えている。子供心にも傷ついた。学校給食はまだ始まっていなかった。したがって昼食の弁当を持ってこれない家庭の児童は昼食時間中は校庭で遊んでいた。このつらい思い出が私のトラウマとなっている。父の実家は農家だったので食べる米だけは確保できた。周囲の人は羨んでいたと思う。
一方見識のある小学校の先生は「アメリカ人は日本人が将来エスキモーのようになると蔑んでいるがそのうち見ておれ」と話した。子供心にもうすうす将来への夢が持てることを知った。
昭和25年6月25日、北朝鮮軍が突如38度線を越えて南進してきた。このあと日本の経済がゆがんだ形で劇的に回復する。北朝鮮が南進を決意した経緯については中国の立場から分析した資料に詳しく述べられている。この資料は中国軍の部内資料で、1994年の公刊雑誌にも掲載された。1994年頃の未だ貧しかった中国の進む方向が現在のような肥大した中国とは異なっていたことを示している。