cho-kai-san811のブログ

連れ合いを失った老人のたわごとです。心機一転何らかの生きがいを見つけて前向きに生きたいと思っています。

報徳仕法、推奨住宅

江戸期、天明3-4年(1783-84)相馬中村藩は冷害による飢饉におそわれました。餓死者や離散者も出て、元禄15年(1702)に約9万人いた人口が3分の1に減りました。中村藩は厳しい倹約施策(「文化の厳法」と称される)により天保元年には藩の借金を大部分返済し終わりました。
ところが天保4年から7年まで再び冷害におそわれました。中村藩は「文化の厳法」を延長し餓死者を出さずに済みましたが、藩の財政は破綻してしまいました。
幕府からも借金しましたが藩主がかなり頭を下げてお願いしたようです。当時の幕府は財政までは面倒見てくれなかったようです。
中村藩は藩政を立て直すため、藩士(富田高慶)を二宮尊徳のもとに入門させ「報徳仕法」を学ばせました。中村藩は富田高慶を中心に藩の改革を推進しました。領民の住宅もその一つで現代でいう規格住宅のようなものまで推奨しました。
私がなぜこの住宅に注目したかというと、相馬中村にあった私の昔の実家が「報徳仕法」で推奨した規格住宅にそっくりだったからです。当時建築時期は聞きませんでしたが江戸末期という事でした。むかしの実家は昭和40年代に建て替えられましたが子供のころ住んでいたので間取りなどははっきり覚えています。祖父は農家に生まれ「報徳仕法」を厳格に守った人でした。食べる米は常に新米ではなく、2年前の米を食べていました。商家育ちの母は、米がまずいと不平を言っていましたが、戦後の食糧不足の時期でも米に困ることはありませんでした。祖父は孫の私たちにも常に飢饉に備える心構えを話してくれました。


報徳仕法の推奨住宅の一例、昔の田舎の実家そっくり、写真は南相馬市の文献からお借りしました。当時の実家は馬は飼っていませんでしたが、納屋で鶏を飼っていました。トイレと豚小屋は別棟にありました。