cho-kai-san811のブログ

連れ合いを失った老人のたわごとです。心機一転何らかの生きがいを見つけて前向きに生きたいと思っています。

終戦前後の思い出ー2

戦時中、父は祖父母に預けた私に時々会いに来た。当時日本本土を大規模に爆撃していた
米軍のB-29爆撃機は子供でも知っており、私は父にB-29の絵を書いてもらった記憶がある。父は絵が上手い方ではなかったが、子供の目には上手に見えた。終戦の年、昭和20年は祖父が60歳で鉄道を定年になるはずだったが、戦争中だったので人出不足で定年が延長されたように思う。終戦前後に仙台市から父母の住む千葉県まで祖母と一緒に汽車で旅行した記憶がある。東京空襲以前の車窓からの風景の記憶はないが、終戦後、旅行したときの車窓からの風景は今でも忘れられない。昔の報道写真に見られるように千住(常磐線)付近から都心にかけて下町は焼け野原だった。上野までの途中の主要な駅は、爆撃され駅舎が消失していた。しかし鉄道は運行していた。列車内は混んでいたが、戦争に負けたんだから我慢しようという雰囲気だったように思う。父は失職し、仙台市の別の会社に転職した。私は祖父母と国民学校1年生まで同居していたが、2年生からは仙台市で父母弟妹と一緒になった。

B-29爆撃機、実物は見たことはないが、気象観測機に改修されたWB-50型を昭和36年
ころ愛知県の小牧飛行場で間近に見たことがある。当時小牧飛行場(現名古屋空港
)には米空軍も駐屯していた。WB-50の外見はB-29とそっくりだった。B-29は朝鮮戦争でも使われたが、ソ連のMIG-15ジェット戦闘機の出現により昼間爆撃が困難になり夜間爆撃に使用された。