cho-kai-san811のブログ

連れ合いを失った老人のたわごとです。心機一転何らかの生きがいを見つけて前向きに生きたいと思っています。

終戦前後の思い出ー3

昭和21年から24年くらいまでは、大変な時期だった。仙台市内の伝統あるマンモス小学校だったが、樺太、朝鮮、満州から引上げてこられた方々の子弟で小学校は溢れかえった。3部授業といって3グループに分けて授業した。学校に全員一緒に入れるスペースがなかったからだ。廊下や校庭でも授業した。先生方も軍隊から帰ったばかりの若い先生が多く、軍隊式の体罰教育がまかり通っていた。しかし教育への意気込みは強かった。国民全般に食料が一番逼迫していた時期で、弁当を持たないで学校に来る児童も多かった。担任の先生もお米の弁当ではなく、教壇でさつまいもを食べていた。私を含め子供たちの関心事はいつも食べ物のことばかりで、何が食べたいなあ、といつも話していたが、みんな異口同音に、バナナが食べたいという。しかし誰ひとりバナナを食べたことがある子供はいなかった。今では一番安い果物はバナナだが、バナナを見るといつも当時のことを思い出す。昭和25年ころバナナの1本を半分に切ったのが10円くらいで売っていた。美味しかったがいつも食べられるわけではなかった。人生の一番の食べ盛りの時期に、戦後の食糧難の時代が重なったことがその後の人生に影響を与えたことは間違いない。美食すると若干後ろめたい気分になるのだ。

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