cho-kai-san811のブログ

連れ合いを失った老人のたわごとです。心機一転何らかの生きがいを見つけて前向きに生きたいと思っています。

25年後

米国の作家オーヘンリー(O.Henry)を知っていますか。高校の英語の教科書或は副読本で「20年後(After Twenty Years)」という短編小説を読んだことがあると思います。


私は、高校3年の時クラスの机が隣でお互いの自宅も近かったので仲良くしていた級友U君がいた。大学受験が目前で忙しかったが自宅を訪問しあう仲だった。彼(U君)は現役で第一志望のW大政経学部に合格した。私は同じくB庁所管のB大学校に合格し何となく入学することになった。私は父が自衛官で母も強く勧めたのであまり気乗りはしなかったが他に希望する学校がなかったのだった。大学在学中に数回彼と自宅で会ったが学生運動が盛んな時期であり、左翼理論を聞かされた。彼は毛沢東に心酔し中共(中華人民共和国)にあこがれているようだった。U君は当時大躍進政策(この政策は失敗し文化大革命の端緒となった)を進めていた中共の宣伝に完全に乗せられていた。私が反論しても聞く耳を持たなかった。大学卒業時も会ったが彼は超難関のA新聞社に就職が内定していた。その後、お互いに駆け出しの身であり、他の分野の人間と交流する余裕はなかった。私は当然幹部自衛官(航空)の道に進んだ。

その後、高校卒業後25年経ったころ、私はある程度経験を積んだ戦闘機パイロットになっていた。私は経歴管理の関係でたまたまB庁の広報に配置され記者クラブに対応する部署についた。その報道機関各社の記者との交流の間に、つい級友だったU君の話をしてしまった。A紙の記者はこの話にすぐとびついた。U君は相当出世し、本社のデスク(編集長)になっていた。私の身分はまだペーペーの”平社員”だった。A紙の記者はすぐにU君を呼んできた。U君とはむかし親しく語り合った仲だったがその時はすでに敵同士になっていた。B庁の広報はA紙を常に警戒していた。現在も変わらないと思う。直近のA紙の記事をみればすぐわかる。

25年の歳月は二人を話が合わない友達同士に変えてしまった。

彼は誠実でまじめで努力家だったのでA新聞社で出世したのは理解できる。