cho-kai-san811のブログ

連れ合いを失った老人のたわごとです。心機一転何らかの生きがいを見つけて前向きに生きたいと思っています。

夜行列車の思い出

夜行列車というとロマンチックに聞こえるが、むかし子供のころ、列車に乗るのはいつも夜行列車だった。終戦前後に両親のいる千葉(検見川)に会いに行くときはいつも仙台発の夜行列車だった。蒸気機関車での各駅停車だ。もちろん3等車。しかし子供心にも旅情を感じたものだ。(現代の「撮り鉄」の皆さんには羨ましいだろうが)
列車のスピードが遅いので東京まで距離感があった。常磐線で原の町(現、南相馬市)を過ぎると東京の臭いがした。今考えると原の町を過ぎると炭鉱が多いので駅に活気があったのだろう。当時常磐線は電化されていなかったので窓を開けると蒸気機関車の煙や煤が入ってきた。車窓が明るくなるのは東京に近づいてから。東京空襲(昭和20年5月)以前から終戦直後までの短い期間に祖父母に連れられ仙台と千葉を数回往復した記憶がある。空襲後は途中の駅の駅舎は爆撃されてほとんど焼失していた。列車は焼け野原になった東京の下町地区を通った。子供心にも強烈な印象を受けた。その後昭和26年に父の再就職で仙台から東京に引っ越した時も夜行列車だった。父は夜行の鈍行列車(3等車)しか乗らないのを家族に自慢していた。食べ盛りの子供が4人もいては家計に余裕がなかった。中野区に転居したが当時東京には焼け野原が残っていた。
家内と最初に出会ったのも昭和30年代後半、夜行列車だった。
高齢になった今、夜行列車に乗るのは体力的に厳しいが、横浜線の夜行列車が走るのを見ると旅情を禁じ得ない。




夜汽車【いつもいつも通る夜汽車】