cho-kai-san811のブログ

連れ合いを失った老人のたわごとです。心機一転何らかの生きがいを見つけて前向きに生きたいと思っています。

本土復帰50年の思い出

昭和47年に沖縄が本土に復帰した。その前後に今は忘れられてしまったかもしれないが、社会現象としていろいろなことがあった。当時、沖縄県民は復帰にともない生活上の様々な変化を強いられていた。最大のものは貨幣の米ドルから円への変更であったろう。私の記憶では、当時1ドルの実勢価格は250円くらいだったが、復帰時国策で1ドルを360円で交換したため、沖縄の経済は大インフレになったと記憶している。復帰前、ドルで多額の銀行預金をしていた人々は大儲けとなった。それを見込んで復帰前に銀行からドルの借り入れができた人も差益が出た。またそれらを見込んで本土から海千山千が、様々な事業を沖縄の人に持ちかけた人がいたようだが、成功例は少なく損失をこうむったのは正直な沖縄の人たちだった。
自衛隊の沖縄配備も政争の具にされて沖縄に移駐した自衛隊員の家族も当初嫌がらせを受けた例があった。私が沖縄に転勤したのは昭和50年で、移駐の第二陣というところか。第一陣と異なり、嫌がらせなど受けたことはなかった。むしろ住民登録などで親切に対応してくれた。住民登録を拒否されると子供が学校に入れないので大問題だった。


当時、私は移動の途中に船中で知り合った地元青年の紹介で那覇市の青年会議所の人たちと交流を持った。また自衛隊沖縄配備反対運動の中心人物である当時衆院議員の瀬長亀次郎氏(日本共産党)が空自那覇基地を訪れて、我々自衛隊員を激励してくれたことがあった。沖縄県人は本音と建前を使い分けるのが上手だ。


那覇飛行場は運輸省航空局と陸海空自衛隊が共同使用しているので、日航や全日空のジャンボ機と我々空自の戦闘機が並んで地上滑走する光景が日常的に見られる。


1回目(1975年7月ー1978年3月)の沖縄勤務では、琉球列島の島々の名前と関係位置が頭に入った。趣味ではこの間、本格的にダイビングを習い、全日本潜水連盟(JUDF)の指導員資格を取った。この資格はダイビングショップなどで生計を立てる人以外はあまり意味はないが。