cho-kai-san811のブログ

連れ合いを失った老人のたわごとです。心機一転何らかの生きがいを見つけて前向きに生きたいと思っています。

母の死亡からひと月

母の死亡からひと月が経った。まだ実感が湧かない。子や孫たちにたくさんの思い出を残してくれた母だったから。昭和20年、終戦時母は28歳、戦後の厳しい時期に食べ盛りの4人の子供をかかえ大変だったとおもう。やりくり上手で、気持ちの切り替えが上手な母だった。
むかし問題児だった私を救ってくれたのは母の涙だった。御恩は一生忘れません。大学生になってからも何度母に救われたことか。無事に卒業できたのは母のおかげです。
昭和30年代、子供達が高校大学に入る時期、収入を増やすため、母は近くの有名大学の学生を下宿させることを企図し、家を建て増し下宿部屋を作り3人の学生を賄い付きで下宿させた。父の実家からの援助もあって、おかげで4人の子供は全員大学を卒業した。母は常に積極的だった。一方父は常に石橋をたたいていたがいつも母に押し切られていた。
高度成長期の一時期、母は有名不動産会社のセールスをやっていた。子供たちはみな独立していたので羽振りが良かった。社員旅行で何度も海外へ行ったりした。
バブル期には、母は70歳を超えていたが、都区内の自宅を売り近郊に移り住もうと提案した。多摩地区に自宅を建てたが、その後広すぎる家は売却し、私の自宅に近いマンションに移り住んだ。父は移り住んでまもなく92歳で他界した。母も90歳になっていた。その後、母は椎間板ヘルニアに苦しみ、2度入院し手術を受けた。当時私の家内は多系統萎縮症を発症し母の介護ができる状態ではなかった。母は退院後、整形外科病院の紹介でグループホームに入居することになった。その後1年経って、グループホーム施設内で腸閉塞を発症し国立病院で緊急手術を受けた。98歳になっていた。約4ヶ月入院し、最後の住居となる別のグループホームに入居した。それから6年間、コロナに感染するまで母は「ここが最後の棲み家ではないのよ」といいつつ楽しく生活を送った。母はそれまでは軽口をたたきすこぶる元気だった。
母が高熱を発しコロナ陽性になったのは2022年8月8日だった。その後発熱が続き、食欲が減退し食べられなかった。8月13日夕刻、救急車で病院に搬送されたが病院では受け付けてもらえず施設に戻された。酸素濃度が基準以上なので入院できないとの医師の話しだった。コロナ下でなければ考えられない病院の対応である。このとき入院できていれば回復できたかどうかは分からない。母は施設に戻された後、次第に弱り17日夕刻に再度救急車で大学病院に搬送された。呼吸はほとんど止まっていたが心臓は動いていた。しかし私が病院に到着した1930頃は心臓も止まりかけていた。2030に死亡宣告された。死亡したままの姿を離れた場所から見せてもらった。全身袋に入れられ、顔の部分だけ透明なビニールで覆われていた。その後、火葬式まで約1週間を要したのは市営斎場が空いていなかったからである。
私の兄妹はみな母との絆が強い。