cho-kai-san811のブログ

連れ合いを失った老人のたわごとです。心機一転何らかの生きがいを見つけて前向きに生きたいと思っています。

日航機事故から36年

日航機事故(1985年)から36年経った。昭和60年といった方が当時の情景をよく思い出す。当時山口県に単身赴任中であり、自宅(官舎)に帰りNHKテレビを見ていたらとんでもないニュースが飛び込んできた。すぐに部隊として行動を起こす必要がないか考えたが、場所は関東地方であり様子を見ることにした。救助活動を開始するにあたり一番の問題点は夜間の山中であり、場所を特定できないことだった。現在ならばGPSで通報する手段があるが、当時は地図上にプロットしなければ地点評定ができなかったのだ。航空管制レーダーや防空管制レーダーでは高度が下がると見えない。山奥なので近くに人家は無く地上からは見えなかった。米軍のヘリや自衛隊機は事故現場が見えているのに翌日明るくなるまで場所の特定ができなかったのだ。当時このような状況を知らない評論家が勝手な批判を加えていたが奥深い山中にヘリから人員を降下させることは二重遭難になる可能性があった。

原因は圧力隔壁の破断による風圧で油圧ポンプシステムがバックアップを含め3つのシステムがすべて吹き飛び、フライトコントロール系統の完全アウトを招いたことだった。油圧ポンプ系統はすべて機体後方に集中して設置されていたため圧力隔壁の破断によって一挙にすべてアウトになったことに鑑み、事故後、油圧ポンプはそれぞれ別の場所に設置するよう改修したと聞いている。この事故原因については、相模湾に落下した破片などから、事故の翌日すでに米国から推定原因を知らされていたが、日本独自の事故調査の手順を踏まねばならないため、すぐには公表されなかった。製造会社ボーイングは以前の尻もち事故時の修理ミスに気付いた為、社員を日本に派遣することを絶対にしなかった。社員が日本に到着すると直ちに日本の警察に逮捕される可能性があったからである。米国とは法制度が異なるので、日本では逮捕されても米国では逮捕を免れることができる。日航機の機長は事故機の機体の状況を知ることなく墜落させてしまったが、スクランブルした自衛隊機から見れば機体後部の状況が見えたはずである。しかし日航機と自衛隊機の間には通信連絡の方法がなかった。これも重大な問題だが現在は解消されているはずだ。

当時長女が大学2年で翌日福岡の自宅から東京の下宿先に飛行機で帰る予定だった。