cho-kai-san811のブログ

連れ合いを失った老人のたわごとです。心機一転何らかの生きがいを見つけて前向きに生きたいと思っています。

五木の子守唄、洞爺丸の思い出

五木の子守唄のメロディーを初めて聞いたのは、昭和29年7月、中学3年生のとき家族全員で北海道から茨城県に引っ越す途中の青函連絡船の中だった。歌詞は知らなかったが哀愁を帯びたメロディーなので記憶に残った。
乗船した連絡船の名前は「洞爺丸」、同船は同年9月26日、運航途中台風(のちに洞爺丸台風と命名された)により函館港外で転覆沈没した。この海難事故は日本の海難史上最悪ともいわれ遭難した他の船舶を含めると犠牲者は1430名(ウィキペディアによる)に登った。


函館から出港した時は明るかったので甲板で景色を見ていたが、突然誰かが海に飛び込んだとの知らせがあり、連絡船は急に反転し飛び込んだ人の救助に向かった。夜間ではないので発見が早かった。飛び込んだ人は船から遠くない位置で海に浮びながら連絡船の方を見上げていた。しかし助けを求めている風には見えず、船員がカッター(小型ボート)を降ろして救助に向かったが飛び込んだ人を摑まえる前にその人は海中に没した。救助作業の一部始終を見ていたがショックだった。助かろうとする意志がない人を見たからだ。当時、自殺の方法として青函連絡船から飛び込む人が結構いたので、難題を抱えて青函連絡船に乗る人がいると、飛び込みを心配したものだった。


五木の子守唄は、現在は子守唄の代表として誰でも知っているが、当時はNHKなどで盛んに放送され人々に知られるようになっていったのだ。



五木の子守歌 (いつきのこもりうた)「熊本県」