cho-kai-san811のブログ

連れ合いを失った老人のたわごとです。心機一転何らかの生きがいを見つけて前向きに生きたいと思っています。

海老名に伝わる銅鐘

十数年ぶりに海老名に行ってみた。たしか前回は家内と一緒に海老名周辺の史跡見学に行ったはず。当時ガイドしてくれたのは海老名市の史跡ガイドボランティアの方々だった。
今日の目的は海老名市温故館の企画展「海老名に伝わる銅鐘」を見学するためだ。古文書を読む会のメンバーの一員(某寺院の副住職)から自分のお寺の銅鐘が紹介されているので見に来てほしいとの要望があった。この地域の梵鐘は戦時に大部分金属材料として供出させられた。現在の梵鐘は戦後に製作されたものが多いという。しかし当時においても文化財的価値の高いものは除外されたようだ。慶長末年(1615)以前の銘を有するものは供出を免れたらしい。
海老名市温故館自体がむかしの村役場を移設した建物で、本来の場所から最近移設され、文化財にも指定されている。
私はてっきり各種の梵鐘が展示されているものと勘違いして行ったが、実物の展示は無く写真で紹介してあるだけだった。実物は大きく、重く、狭い温故館には入らないのだ。あたりまえだが。海老名市温故館は相模国分寺跡に隣接しており(移設以前の場所も反対側の位置で隣接していた)レトロな洋館造りなので目立つ建物だ。
相模国分寺跡の位置は小田急線、相鉄線の海老名駅からゆっくり歩いても10分と近く、近年の駅前の急激な発展に伴い商業施設や高層マンションが続々と遺跡に接近しつつあり、遺跡の保存に関して今後慎重な対応が求められよう。現在も遺跡に隣接して高さ43mの高層マンションが建設中だった。海老名駅から相模国分寺跡まではにぎやかな繁華街を通り抜けていくことになる。
今日は自宅から海老名の国分寺跡まで、電車を乗り継ぎ所要時間約1時間だった。朝食後ゆっくり出発して1時間見学し、帰宅して自宅で昼食を食べた。クリスマスイブで町田も海老名も人出が多かった。一人で外食する気にはならなかった。
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相模国分寺跡については、異説がありますが今回は海老名説にしたがいました。






相模国分寺跡



移設された海老名市温故館、元は村役場の建物




東光山国分寺(真言宗)、国分寺遺跡から直ぐの場所にある


同寺の鐘楼

東光山国分寺から海老名駅方面を見る

20231223の古文書を読む会

今日の古文書を読む会のテキストは、明治初期の頼母子講の掛け金に関する覚書の文書だった。金融業も営んでいた名主なので保存された古文書には証文類の文書も多い。他の文書に記載された貸金の利子は「一割」とあった。当然家作などの「抵当」も記載されている。学校教育では、日本は江戸から明治にかけて、近代化が円滑になされたように習ったが、実態は様々な軋轢を経て近代化がすすめられたことが古文書からわかる。




            覚
一 金㊞五両弐分弐朱ト          子方壱口分
     弐匁四分               
右之通り廿一会目掛ヶ金
慥㊞に受取り申し候


未十一月二日      深谷
            世話人㊞
 いつつや
  鉄五郎殿

家内の従弟からの手紙

家内と結婚後、何十年も会ってなかった家内の従弟からお悔やみの手紙が届いた。彼と最初で最後に会ったのは昭和39年頃だった。従弟は、私と同学年、大卒後地元で教職に就いたので、転勤族の私とは会う機会がなかった。家内の姉妹から動静は伺っていたのでいつか会えるものと思っていた。 最後は地元の小学校の校長先生でリタイヤしたと聞いた。家内が小さい頃は、家内を好きだったらしくしばしば訪れていたらしい。家内も幼馴染の彼がどうしているか気にしていたふしがあった。20年ほど前、山に登った時の写真を送った記憶がある。それも一度だけ。この手紙を家内の祭壇の前で読んで聞かせた。